UNIX哲学記

ようこそいらっしゃいました。これはMatsuの考えをダンプする手記です。

Hello, Worldと自己紹介

Hello, Worldと自己紹介

2021/1/11

COVID-19を引きずったまま2021年を迎えた。
2020年は僕にとって、再確認と勉強し直しの年だった。
テレコム業界で10年間働いてきたが、IT企業に転職し、実際に「実装」するにあたり自分に何が足りないかを理解した年だったとも言える。
今年(2021年)は、勉強とアウトプットの両立を目指したいと考えている。
アウトプットの手段を増やしたい。その一手段として(今更ではあるが)はてなブログを始めてみようというわけだ。
僕が常日頃考えている、UNIX哲学に軸足を置いて、アウトプットをして行きたいと思う。

新年の目標としてのアウトプット以外にも、ブログを始めようと思った理由はいくつかあるのだ:
* UNIX哲学について語る場を設けたい
* 自分の考えや思いをダンプする場を設けたい
* 文章を書く練習をしたい

また、友人がnoteを始めた事にも影響をされている。
文章を書くということは自分の考えを整理する事にも繋がるし、それを貯めておく事も勿体無いので、敢えて公開する事とした。
まぁ、手記を公開するようなものであることを理解していただきたい。

自己紹介

このブログを初める前に、自己紹介をしておく。
僕は名古屋出身の、現在33歳のネットワークエンジニアである。

学生時代(-2010)

中学の時からパソコンが好きだった。
そういった類いの勉強がしたいと、アルバイトをしながら工業高校で資格取得に励み、地元のEランクの工業大学になんとか進学した。
大学では、モノづくりのサークルの活動(3回生からは会長になった)や計算センターでアルバイトをしながら、プログラミング、電子回路作成、UNIXサーバ管理など、「そういった類い」の大抵のことには手をつけることができた。
3回生になり、専攻で一番やる気のある若手の先生の研究室で研究活動をした。社会人向け組み込み講座などにも参画した。
プログラミングは好きだったが、田舎の大したことない大学でもセンスのある天才がいて、僕には彼らに立ち向かうためのセンスも無ければ、努力も足りていないことに気づいた。
就職から定年まで、コンピュータ業界で仕事をしていくのであれば、生き馬の目を抜くソフトウェア開発よりも、ややこやしい機械を操作して悦に浸ることができるような楽な仕事がいいなぁと、組み込み機器やサーバプラットフォーム、通信関係の仕事をしようと考えていた(これは後になって大きな間違いだったと気付く)。
何となく、山の上などにあるアンテナのついた中継局の保守などをしたいなぁ、などと漠然と考えていた。
さる折しも、リーマンショックで世間は就職難となり、ようやく内定をもらえたのが地元(から少し離れた)ケーブルテレビ会社と、某通信事業者の孫会社、東京の(今でいう)MSPだった。
総合的に考えて、某通信事業者の孫会社に入社することにした。

新卒ひよっこ時代(2010-2016)

入った会社は某通信事業者の孫会社、いわゆる某通信事業者の現業である。
当時の某通信事業者は公社から一社化・分社化の時代を経てもなお、まだレガシーの息づく長閑な会社だったので、入社して一年間は十分な研修を受けることができた。
とはいえ現業なので、電柱に登ったり、交換機やルータのカードを取り換えたり、エクセルで図面を書いたり、厚いドキュメントを暗記したり、そういった類の研修である。
山の上などにあるアンテナのついた中継局については、光ファイバー網の発達で今は役割を終えており、携帯電話会社の物しか残っていない事に気付きガッカリしたのはこの辺りである。

僕はそこそこ出来が良かったので、武蔵野の研究所にも数ヶ月勉強に行った。学ぶことは多かったが、在京中には東日本大震災に遭遇して、とはいえ研修中の新人には何もできる事はなく、暗澹とした気持ちになった。
研修が終わり初期配属である。
地元の名古屋を離れ、大阪本社の地域IP網や次世代ネットワークのNOCにおいてバックボーンネットワークの監視制御業務をするチームにオペレータとして勤務することとなった。
その後は大企業で良くあるジョブローテーションで、現場での工事・保全作業をするチーム、通信機器の検証業務をするチームなどを転々とした。

米国赴任と帰国の時代(2016-2019)

その後、グループ会社のISPOJTとして転任した。
程なくして、国際ISPNOCがある、米国にTraineeとして一年間赴任した。
仕事自体は、慣れ親しんだNOC業務である。言語の壁はあれど、現地の社員よりも慣れており、大抵のことはメールやSlack、定型文で何とかなるのだが、問題は雑談や電話である。
とにかく英語が聴き取れない。特に、話している内容のコンテキストが掴めないともうお手上げである。
職場では日本語話者も居ない。
独身なので、家に帰っても日本語を話す相手も居ない。
日本から来る連絡は、全て僕を責めている様にも思え、ほぼ鬱状態だった。
半年もすると英語にも慣れ、職場で友人もでき、他のグループ会社からも駐在で日本人も来たので心理的安心感ができ復活できた。
また、職場のVPがUNIX(本人は哲学とは絶対に言わなかったが)ベースの考え方の人だったため、兼ねてからの自分のスタイルをUNIX哲学として昇華することができ、これは大きな自分の財産となった。

帰国後は速攻で主査試験を受けることとなった。
主査試験に合格し、職位が上がったので、またジョブローテーションで異動となる。
異動先は初期配属の時と同じ、NOCとなった。
しかし、花形である以前所属していたバックボーンネットワークのチームでは無く、サーバプラットフォームのバックヤード担当となった。
ここでメインストリームではない、めんどくさい装置及び、ベテランオペレータさんの世話を延々とする事となる。
前任のTraineeに比べて目に見える成果を出せず、冷遇されているのだろうと感じた。
最終的に、ネットワークの運用自動化やNOCの運営について、会社の方針と僕の考え方にどんどんズレを感じ、勤続10年を迎える矢先に転職を決意した。

転職から今(2019-)

学生時代に付き合いのあった先輩に誘われて、某IT企業にネットワークエンジニアとして転職をした。
一年を経たずして業務統合で某出版社の子会社に移籍をし今に至る。
シニアとしての給料を貰ってはいるものの、運用の経験が長かった為、ルーティング・スイッチングの論理設計は得意ではなく苦労している(運用畑から構築に移るのには、皆苦労するものらしいが)。
サービスプロバイダや運用とは、パラダイムや考え方が違うので、壁を乗り越えるとまた次の壁が出てくる様な困難がある。

しかし、トラブルシューティング、低レイヤの領域や自動化といった、コアの分野からは若干上下の領域が得意なので、なんとか生き延びている。 最近では埼玉の新しいキャンパスの開設に合わせて、WDMで埼玉と都内を接続したり、スイッチの設定の標準化や自動化の取り組みを実施している。
またファシリティ関係の学習と、米国赴任中に身につけた英語力の維持を兼ねて、BICSIのTDMM翻訳ボランティアに参加をした。

趣味や生活

現在は横浜に住んでいて、職場は東京にある。
趣味は読書と旅行で、モノづくりも好きなのだが最近はめっきり取り組んでいない。
昨今のブームは温泉巡りではあるが、COVID-19の状況下であまり出かけられていない。
軽自動車を持っており、賃貸のマンションに夫婦で住んでおり、今年は中古戸建てを購入し引っ越しの予定。
子供はまだいないが、金魚、みじんこ、ドジョウ、オキナワシリケンイモリを飼っている。
これはミジンコを除いて妻の趣味なのだが、なかなか可愛いので気に入っている。
妻とは大阪勤務時代に婚活で知り合い、転職で上京するのに合わせて結婚した。
なお夫婦ともアニメやマンガの好きなおたくではあるが、その趣味はだいぶ異なる。

ブログについて

過去にも何度かブログを始めた事はあったが、いずれも長続きしなかった。
文章をアウトプットするのには精神力を使う。
僕は完璧主義なところがあり、成果物を自分の満足ゆくまで世に公開したくない性がある。
なので疲れてしまい長続きしなかった。
今回は、あまり精神力を使わずに、手記という形で自分の考えや思いをダンプする事で負荷をかけずに書いていきたいと思う。
読者の皆様には辛抱して頂く事になるが、そのうち文章もましになってくるであろうから期待してほしい。